カテゴリ:ひとサマのブログ( 57 )
AIUEO for COPY and PASTE
あいうえお表なんて打っておいたら、誰かお使いになるかしら。
10/23追記
……なんていうおバカをやってましたら、ももんがさんからコメント欄で面白い情報をいただきました! 日本語の使えない端末でも、オンラインで日本語変換できるサイト。
http://ajaxime.chasen.org/
以下、情報いただいた記念にとってあるだけです。
風待ちさんがお引越し
はりぃさんに教えていただいてから、ひそかに時々お邪魔していた、『迷子大好き by kazemachi』さんがお引越しだそうです。
こういう素敵ブログさんが引越しとなると、急に、「やっぱり《eXcite》も落ち目なのかなぁ」なんて思うのでした……。←かなり現金w
思った通りの小説が書けないのは当たり前だけど、思った通りのブログが書けないことはアリエナイ、らしい
「ここはこういう意味ですか」
「いや、こういう狙いで入れた文章なんですけど、目論み通りには読めないですか。こういう表現にしたらどうですかね」
「それなら判りますよ」
“WEB小説”の感想のやりとりのなかで、そんな応答は当たり前であって、珍しくさえない。
(ただし、これはどちらかというと前出の「辛口感想」と見なされるので、相手は選ぶ)
“思ったとおりの小説”が書けたら、それはもう、名手と見なされるんじゃないかと思う。
ところが、ブログの文章では「思ったとおりに文章が書けていること」が前提になる、みたい。
「日本語が読めないんですかっ」
「読解力がないっ」
って、よく見るフレーズ。つまり「思ったとおりに文章は書けている」ことが前提で。
「あなたの文章は、あなたが思ったとおりには、書けていないのじゃないですか?」
などという指摘は、傍若無人、言語道断、無礼千万、アリエナイ。書き手の意図どおり読めない、読み手に非がある。
通じてない部分を直す、通じやすい言葉を探す、って発想は見えてこない。
この世で、推敲って言葉は、小説専用なのか。
うーん? なにか、すごく根本的なところで間違えているような気もする、ケド。
一個人とのやりとりを、ブログの一般論としてはいけない、とか。
……まあ、いいや。
批判の話で、批評の話を思い出した
*無誤謬:聖書無誤謬説とか法王無誤謬説とか。つまり神がかり。
その中で、
WEBに公開する以上、「世間の常識」「ネットの常識」からみて、変なこと書いたり、したりしたら、批判は受ける“可能性がある”でしょう。それが違法でなくても。たとえば「無断リンク禁止」でも、ごく普通の(笑)チェーンテキストでも、あるいは素材サイトからの直リンクとかでも。(批判がイヤならちらしの裏にでも…、と、これぢゃ某大型掲示板の言い回しですが)と書きました。書いたわけではありますが。
色んなブログを見てまわって、時には思うことがあるのですよ。
「ここをそのネタでそこまで叩かなくてもいいんでないかい?」
って。
それを思わせるものは何だろう?、とか、ちょっと考えてみた。
一つは、「それって常識*じゃなくて、価値観の押し付け**じゃん?」ってのがある。上で「常識」って書いたけど、「まだ常識になっていない」(あるいは永遠にならない)価値観を信奉するあまり、違う価値観を持ってる人間にそれをごりごり押し付ける人っていうのがいる。押し付けている側はすでに信じ込んぢゃっているわけで、その人にとっては「常識」だったり「善悪」だったりするわけだ。
そうすると読んでる側は批判されている側ではなくて、批判している側に「?」を持つ。そうすると大抵、誰かが「こんなコメント気にするな」とか書くわけ。
*常識:「法律に違反しちゃいかん」「それリアルに危険が及ぶよ」を含む。
**「ネット上の言論において価値観の「押し付け」というのは無理」だとワタシも思ってるってことです^^
もう一つは、(某所に書いたけど)ブログ主のオーラねww。うちみたいに「(価値観レベルでも)批判反論OK、議論WELCOME、かかってらっさい(妖笑)」っていう心臓に剛毛が生えているブログ主もあれば、数ページ読んだだけで、「ああ、この方は優しいけども、打たれ弱そうだなぁ」って思う方のブログってのもある。
ときどき思い出すのは、WEB小説での「辛口批評」論争。
WEB小説の書き手にも、もっと上手くなりたいから辛口の批評が欲しい!という人と、趣味でやってるんだし、私、打たれ弱いんで辛口批評はカンベンしてよ、って人がいるわけっす。
辛口の批評が欲しい人は、うっかりと辛口感想を書きがちで。それに、打たれ弱い作者がショックを受けて、作品を書けなくなってしまったり、サイトを閉めてしまったり。批評をした側は、「この作者さんは、ちょっとこうすれば、もっといい作品になるのに!」と信じるからこそ、手間暇かけて、批評を書き送っていたわけで……。
そういう悲劇がそれなりに実在した末に。「辛口の感想が欲しいか欲しくないか、(感想が書かれる前に)宣言してしまえ」という呼びかけが始まったンす。(ex.感想耐性主張バナー/彪峰氏)
こういうのって、ブログでもありえないのかなー?とは、ちょっと思います。
「批判を受けない」のは、けっこう難しいと思うの。批判したがる人は、「批判しないで!」って書いてもやっぱり書き込んでくるし。批判してる自覚のない人も、たまにいるから。
でも、「批判コメントにはレスをしない」、これだけで、ずいぶん楽にならないですかね? たとえば「炎上」って、たいてい、批判がきて、反論するから、ますます燃えちゃうんだよね?? あちこちのブログを見ていると、「全てのコメントにレスをしない」と宣言しているところもあるんだけれども、「コメントもらったらレスをするのが礼儀」と信じていらっしゃるブログ主さんも結構あるわけで。批判コメントが「来てから」、批判コメントだけレスをしない、って宣言すると何かとカドが立つから、「あー、自分にとって批判コメントにレスするのって大変だなぁ」と悟った時点で、たとえば……、
管理人が自ブログにアクセスする際にいただいたコメントにすべて目を通しておりますが、批判コメントには原則としてレスをしない方針です。同じ方からの批判コメントが同内容/類似内容で繰り返される場合は、削除することがあります。とかって宣言してしまって。ブログのTOPの見やすいところからリンク貼っておく。どうでっしゃろ??
また、当方から、「他サイト」「他ブログ」「自ブログでコメントくださった方」を批判することはないつもりです。
あ、ちなみに、うちのブログは、ワタシへの批判は別にいいんだけども。お客さま同士は乱闘禁止です^^、
[memo]倫理研で「批判を批判」ってあったっけ。もう一度さがしてみる^^>自分
■
ちょっと話題が「批判」からそれますが。感想耐性バナーのネタを出したのでついで。
「甘いのも辛いのもヒッくるめて、リアクションは全く不要」というWEB小説書きを、私は知りません。リアクションが欲しいからこそ、サイトやブログを作る手間をかけて(盗作のリスクを冒してでもw)、自分が書いた原稿をWEBに載せるンす。「褒め称えよ、この俺を」の人も、「仲良くしようよ」の人もいる。「ドコが悪いんだよ、言ってくれよ!」っていう強烈な向上心の持ち主もいる。どれもこれも、自分の作品がWEBのどこにあり、どこにリアクションがあるかが限定されているから、自分の作品へのリアクションを知ることができる。それが転載でも盗作でも広いWEBのどっかへ彷徨っていっちゃって、自分のもとにリアクションが戻らないとしたら、リアクションを求めてWEBに載せている者たちはWEBに作品を出すモチベーションを失ってしまうのです。
私は素人レベルのクリエーターが強烈な著作者意識を持つなんて、くだらないことだと思っているのです。著作権保護の対象はプロだけでいいし、権利意識を持つのも彼らだけで十分だ、(中略)他人の著作物の自由な利用が可能になれば、新たな作品を作る方法は大幅に広がります。より自由で、潤沢な材料が揃った環境が用意されれれば、今では考えられないような素晴らしい成果物がどんどん生み出されるに違いない。素人だからこそ、著作権でしか守ってもらえないんじゃないか?、と思います。金になるプロなら、民法的な損害賠償のアプローチでもなんとかなりそうな気がする……。
WEBに作品を出すモチベーションがなくなれば、アレンジすべき「材料」なんざ枯渇していくのでは? 素朴な疑問です。
写真といふもの
某所、写真転載関連で、ひとつだけ、残った疑問があるのです。
私は、
1.本人が自ブログに「当ブログの記事は転載可」と書き、
2.本人が「転載可」に設定した記事
であれば、転載は可能なのだろうと思った。
あえて付け加えるなら、これで未加工写真であれば、
「本人がいいと言ったとしても、(カワイソウだから)、WEBの怖さをご存知の方としては、転載しないでおいてはどうでしょう」
と言うたかもしれませんが、目にモザイクがかかっていたし、OKだと思ったわけです。
つまり、「個人情報」としての問題をクリアすればOKである、と。
写真であることそのものにはあまりこだわらなかった。
ところが、他の方からは、「写真だからダメ」という反応がけっこうあった……、ように思う。
牛男氏、トンコ氏あたりの反応は、
「不快だということ」
はよく判ったのですが、
「なぜ、そんなにも不快なのか」
ということが「実感として」いまひとつ判らなかったんす。
jemini氏は、わからんちんな阿檀に、いっしょけんめ説明をしようとしてださいました。
写真というモノは「自分の姿の投影」であって、見る人にも強いインパクトを与えます。いくら自らが過去に掲載した写真であっても、人様に勝手に使われるのは抵抗があると考えるのが当然ですし、法的、規約的に問題が無くとも配慮すべきものだと思います。
それって、、
あんち著作権なhさんへ^^
「ネットの時代において、現在の著作権は、マッチしてない」
という主張をお持ちであることを知る。
当方は一応「遵守派」であるわけで^^
あちらさまはいろいろおっしゃりたいコトもあるんだろうなあ、と思いながら、ちなみに、こちらから言いたいことは特になかったりする(笑) 私がマズいと思っているのは、自分が違反をしていると知らずに違反をしているレベルの方たちであって。
「自ブログが"アゲられる"ことくらいは覚悟の上、むしろ論議の種になるためにありがたいくらい」
とまで覚悟のある方たちについては、何を言うこともないのである。
そんなあなたに。最近読んで面白かったブログ記事を2つ。
「あたらしい著作権の話」(『ageha』)
「著作権」は別に絶対正義でも天賦人権でも無い。社会的必要に応じて変わるもの。
「続・あたらしい著作権のはなし」
実は著作権をめぐるあらそいというのは、タダの価格交渉です。著作権というとすぐに文化だ芸術だと言う感じで平伏してしまいますが、ほんとうは関係ありません。※一応注記:著作権をめぐる“訴訟のほとんど”は価格交渉(著作財産権側面)、ただし、ネット上ではしばしば「著作者人格権」(作者偽称/コピペ盗作)が問題となる。
[おまけ]【すごいぜ!JASRAC伝説】(YouTube)
責任を求めるのがおかしい、と、言い放った貴方へ
インターネット上の「情報」に責任を求めるのがおかしいのです。その情報を選択するのは「選択した本人」なのです。ネット上にはウソの情報や、間違った情報もたくさんあります。どれを選んで利用するかは「利用者側の責任」です。たしかに、ネット上の情報を“利用”する側は、それが信頼できる情報かどうか、確認する必要がある。
が。発信する側として、それに甘えてよいのか。
発信する側は、できるかぎり正確な情報が、できるかぎり意図に近いニュアンスで届くように、できるかぎり努力し。
受信する側は、その根拠を含めて、厳しく吟味する。
発する側と受ける側が「正確」を求めて両側から手を差し伸べて、ようやく、なんとか使い物になる情報となる。それが私の実感だ。
医学系のページを作る、その興味を持つための最初のきっかけは、他の方の発信した情報であったかもしれない。でも、1行を書くために、何時間も検索をし、ようやく見つけた時のこの高揚はもう誰のためでもない、私自身の喜びだ。この喜びを大切にしようと思う。
そして……、幸いなことに。私はその責任と喜びを受け止める、多くの発信者を知っている。
文責を、求める発信者と放棄する発信者がいるとしたら、放棄する側は見劣りがしても仕方ない。……それくらいは、お許しくださいね。
追記:あの場では引用発言は私以外の方の発信した情報に関して行なわれたためあえて反論しませんでしたが、上記のことは私にとってどうしても揺るがせにできません。会話としては遅ればせを承知で、あえて書かせていただきました。
いまは無きブログに捧げるD論
re:Do Androids Dream of Electric Sheep?
私がそっと拝読していたあるブログに、PKD(フィリップKディック)の作品『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を引いた短い記事があった。その作品には、一人のパーソナリティが、ラジオだかTVだかで、1日24時間以上の主演をしているという描写がでてくる。作中では、彼は実はアンドロイド(レプリカント)だったのだが。ネット接続時間の非常に長いあるユーザーを、このパーソナリティになぞらえていらしたのである。
私がその記事にレスを書こうかどうか迷っているうちに日が経って、そのブログは無くなってしまった。
この記事によって、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を思いだしたときに。
実は、私はもう一人、別の登場人物を連想していた。
この作中には、「ムード(情調)オルガン」というガジェット(SF的小道具)が登場する。人々はムードオルガンの取っ手を握ることで、感情を繋げることができる。感情の「輪」の中心にいるのは、マーサーという老人である。マーサーは山を登っていく。どこからともなく飛んできて、マーサーに当たる。足元の斜面が崩れ、マーサーはけして頂上にたどりつかない。えんえんと繰り返すその映像を中心に、人々は接続する。ムードオルガンを通じて、互いの日常生活のなかの喜びと苦痛を分かち合う。
やがて。先述のレプリカントがこのマーサーの正体を暴く。マーサーは、飲んだくれの売れない老俳優に過ぎず、石も本物ではない。人々の「繋がり」の中心に据えられていたのは、ただの芝居だったのである。アンドロイドは、人間の「繋がり」の中心を破壊した、と、勝ち誇る。
しかし。人々は……、偶像が堕ちてもなお、その感情の接続を切らないのだ。ムードオルガンに、自らの感情を託し続けるのである。
これは、砕かれた「コア(核)」の物語だ。けれど、その周囲の人と人との繋がりが十分に緊密なものになっていれば。コアが砕かれても、その繋がりまでは破壊することができない。それは、アンドロイドが予期した、理性的な繋がりではないからだ。その「理屈に合わない」感情移入能力こそ、この物語のなかでは、「人間性」の証明となる。
なお、この作品の発表は、1968年。ARPANETと名づけられた、インターネットの「元祖」が誕生したのが1969年だから、その前年にあたる。
ある記事を読んで。私は何度か書きかけては発表をためらってきたこの文章を、アップすることにした。
コアが傷つけられても、それを見捨てることなく、繋がり続ける。その方たちの人間性を、私は、否定しようとは思わない。
だが……。かりそめにもコアになった以上、まわりに繋がった人たちに対する、なんらかの意識と言うのはあってもいいものではなかろうか?
──「自らの評判などには「無頓着」」 ほんとうに、それがベストアンサーなのでしょうか……?
~謝辞~
思考を深める機会をくださった、消えたブログの主に感謝をこめて。
1枚の写真の話をしよう。
その写真は、1件のショットバーの、閉店の夜に撮られたものだという。
バー、という言葉に何処かブラウンの色調が似合うのは、バーボンのあの琥珀の色あいからの連想だろうか。その写真も、どこか全体にブラウンの暖色を帯びていた。カクテルに使われるものでもあるのか、彩々に並んだ酒瓶が、良い背景画となっている。
真ん中に撮影されているのは、男性と女性だ。
「ほら、そこ、寄って寄って」
「はい、チーズ!」
そんな掛け声が聞こえてきそうな。かといって、馴れ馴れしく肩を抱くでもなく、ボディタッチがあるわけでもなく。
ブログに掲載されていたその写真には、ネットで公開するのに差支えがない程度に目元にモザイクがかかり、けれど、口元は、笑った表情がよくわかるよう残されている。女性のほうははしゃぎぎみの笑顔で、男性のほうは髭のある口元にかすかな微笑を浮かべて、1つの店の終わりの夜を惜しむ、二人の人物の写真だった。
私がその写真を見たのは、児島の仙人氏の転載記事である。最初にこの記事を見たときには、現在、大きな文字の画像が出ている場所に嵌め込まれていた。
■
私はそれまで、OYAJI氏の人となりが掴めないことに、多少の焦りを感じていた。
私は、ペンネームやハンドルを決めるときには、ある程度、自分らしさが出るようにする。サイトやブログを作るときも、閲覧者に自分らしさが少しでも伝わることに留意する。たとえば、ここの歴代デザインも、NAZCA+02さんの鳥、EggStationさんの針金細工、そして現在の阿檀(植物)の写真を写真を撮った方に了解いただいて加工したもの、と、変遷してきているが、すくなくとも、「可愛らしい手弱女」であるという誤解だけは避けるようにしてきたつもりである。(私がそれをやったら、詐欺罪に該当する???・滝汗)
ところが、OYAJI氏のブログに関して。
ハンドルと、グレイ系の色で作られたTopicPickerの横バナーだけなら、非常によくわかる。横バナーに付された男性の横顔の絵と、アバターの顔部分は、よく似ている。
しかし……、ピンク系のキティのテンプレートと、熊耳のアバター衣装に至って、私は混乱していた。それはハンドルや横バナーの“男性的”なイメージとは、全く相反するものだ。
「あの方のセルフイメージが掴めないんです」
私が漏らしたのを、仙人氏は、ご存知だった。
正直にいえば、私はピンクのテンプレートと熊耳にひっぱられすぎて、“OYAJI”というハンドルの陰にいるのが女性である可能性までも想定の範囲に含めていた。ネットでは色々なことがある。女性であるが故にネットストーカーまがいの被害にあって、男性ハンドルを使いだした例も、同性のネット友達ができて一部の相手だけにカミングアウトしたために色々な面で中途半端になった例も、見てきていた。
だから、写真を見たとき……、なんと言ったらいいだろうか。最初に来たのは、「安堵」だった。写真は、(この絵をどなたがお描きになったのか知らないが)横バナーの似顔絵にもよく似ていたし、元記事のコメントにもあったとおりアバターにもよく似ていた。ああ、ネットの向こう側に、ほんとうにこの方がいるのだ。本当に男性で、これくらいの年格好で、カメラを向けられたときにこういう微笑い方をする方だ、と。
「転載元」は(よくあるという表示漏れバグもなくて)きちんと表示されていたので、コメント欄は見ていた。仙人氏が転載希望を書き込みしていらっしゃらないことは確認していた。酒に酔った話を選んできて転載するのは、転載機能擁護派であるOYAJI氏に対して、いささかブラックジョークだとは思ったが。せいぜい、その程度だった。
■
けれど翌日。写真は、まったく別の画像に差し替えられていた。(差し替え後しかご存知ないかたもあるようだ)
それも衝撃的だったが、もう一つ私が焦ったのは、転載をした仙人氏に、第三者の非難が集中していたことだ。
私は“大きな”問題を感じなかった。他の方は、問題視なさった。そのズレはどこで生じたのか。
一つは、転載機能に関する解釈であろう。
私は著作権のプロではないが、それでもそれなりに勉強をした者として、「転載可指定は転載許諾」という解釈にそれなりの自信をもっていた。
たしかに、コメント欄で、OYAJI氏が違う意見をお持ちであることは知っていたが。
著作権者は「複製する権利を専有」と同時に「許諾を取り消す権利」も同時に持っている
2006-12-03 01:35
……そんな権利を認めたら「小説家が小説を出版社に売る」というごく当たり前の経済活動さえオカシクなる、ということは、ご説明をし、それなりにご理解をいただいたつもりでいた。なんの“添え書き”もなく、「転載可能」で記事をアップした場合、「勝手に利用された」=著作権違反とは「言えない」ともご説明していた。
もう一つは、上記の記事につけられた、OYAJI氏のコメントを読んでいたことだ。
私自身は明確な“添え書き”を全ての記事の中に行なっております。許諾条件をハッキリと明示して、それを守ってもらうように要請しています。ただ、おそらくそれすら読んでいないユーザーは多く存在するでしょうけどもそういう相手に対して「黙示の許諾」をしているだけです。
2006-12-03 21:22
ちなみに。転載された記事には、「(c)OYAJI」という著作権表示があり、ブログトップ(http://blogs.yahoo.co.jp/uragoe_2ch)にリンクされている。TOPには「転載は転載元がマナーです」という表示があり、さらに『超簡単!!記事の転載方法♪』という記事へリンクし、こう書かれている。
「普通の意見提案の記事などは、自己責任でルールを守った上でなら転載可です。解説記事であっても、転載機能をよく理解した上で記事の掲載責任を充分に負える人は構いません。」
その後、OYAJI氏は、ガイドラインを引用していらっしゃる。
「もし、ご自分の知的財産権が侵害されているブログを発見した場合は、まずブログ開設者と連絡をとって、削除していただくように依頼しましょう。ブログ開設者は、もしもそのような連絡を受けた場合には、当事者間で誠実に話し合って、適切な対処を行ってください」
「明確な“添え書き”を全ての記事の中に行なって」いらっしゃるのではなかったのか。「普通の記事は転載可」が方針ではないのか。百歩譲って、OYAJI氏の著作権解釈を認めたとしても。ガイドラインには「まず、削除依頼」とあるのではないのか。
しかし。OYAJI氏が"まず"なさったのは、仙人氏への削除依頼ではなく、禁じ手ともいえる画像の差し替えだった。
■
ところで。最近になって、OYAJI氏ブログのコメント欄を読み返していて、面白いものを発見した。
[児島の仙人氏] よ~~く考えて判断します♪「私個人の解釈」では、転載機能を有効にしてある記事を私のブログに「転載」することは、著作権法にもガイドラインにも「何ら抵触することがない」と判断いたしますので、私の「自己責任」のもとで、記事を「転載」させていただきます。あなたの「個人の解釈」は、到底一般に受け入れられるものではないでしょう。2006/12/14(木) 午前 9:34
[OYAJI氏] sen_nin_kiyamaさん : はい、よ~~く考えて判断して下さいね。Yahooブログの解釈はYahooブログが利用規約とガイドラインに基づいて判断するものですから、その点をご理解くださいね。2006/12/14(木) 午前 10:46
[児島の仙人氏] はい、利用規約とガイドラインに基づいて判断しましたが、何ら問題ないと思います。 2006/12/14(木) 午前 11:13
実際の転載(12/24)が行われる、10日ほど前の宣戦布告???
■
あ、ついでですみません>OYAJIさん
『もう一度、転載について(8)』(上記コメントの元記事)の著作権解釈。あれ、無理だと思います。著作権とガイドラインの解釈については、異見がないわけではないというのはお伝えしてあった(2006/12/14(木) 午前 11:47)のですが、あのときはまだ「戦線を拡大しないで」というRhap氏の依頼に応えてそれ以上の言及を避けていました。だいぶ、関連記事の新規アップも減ってきたし、そろそろよいでしょう。
次に、一次・二次を問わず、許可を取ってない場合の公開での転載は、転載元ブログ記事のタイトルとハイパーリンクが右下に付く事になってますが、厳密に言えば、その時点で「同一性保持権」が侵害された記事が公開される事になります。
転載元表示が不具合で消失する場合もありますし、二次以降の転載は別のブログタイトルになります。
トンコ氏もFD氏も、著作人格権のなかで、氏名表示権を問題とし、同一性保持権についてはとくに言及がないが、これには理由がある。
(氏名表示権)
第十九条 著作者は、その著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示し、又は著作者名を表示しないこととする権利を有する。その著作物を原著作物とする二次的著作物の公衆への提供又は提示に際しての原著作物の著作者名の表示についても、同様とする。
2 著作物を利用する者は、その著作者の別段の意思表示がない限り、その著作物につきすでに著作者が表示しているところに従つて著作者名を表示することができる。
3 著作者名の表示は、著作物の利用の目的及び態様に照らし著作者が創作者であることを主張する利益を害するおそれがないと認められるときは、公正な慣行に反しない限り、省略することができる。
4 (省略)(同一性保持権)
第二十条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
2 (省略)
著作権法(強調と省略は引用者による)
氏名表示権には、「その意に反して」に該当する部分がない。これにより、「本人が了解しているから他人名義で発表」が許されない。たとえば、著作者の名義になる有名作家と、金をもらって書くゴーストライターが両方とも了解していても許されない。しかし、同一性保持権は、本人が「変更」を了解したら、変更していいのである。
「転載可能」のラジオボタンを選んだままで記事を掲載することが「転載許諾」を意味する、という解釈においては、「転載元」の表示がかわることも、「了解」したものと見做される。OYAJI氏の著作権解釈は、この解釈(「転載可能=許諾」)を崩すには至っていないと思う。
なお、自ブログに(C)表示や作成元表示を入れていらっしゃる記事に関しては、、トンコ氏FD氏がおっしゃる「2次転載以降、「氏名表示権」による著作権違反」という解釈も、かかってこない。
■
児島の仙人氏ブログの転載記事に話は戻るが。
転載を望まない記事なら、転載不可に設定すべきだったのだ。OYAJI氏は何をもって「仙人氏に非がある」とのみ主張をなさるのか。OYAJI氏に賛意を示した方々は、どこまで周辺状況をご承知だったのか。
もし、仙人氏に非があるとしたら、「転載可能は転載許諾」という解釈を自ブログで書いた文責、写真の記事を見てなんのコメントもしなかった看過に対する責任が、私にもある。まして、転載の対象としてこの記事を選ばれたことと、私の失言が関係あるとしたら、その責の5割までは負いきれないが、3割は私が負うべきだろう。
■
この記事は、写真差し替えの直後に書きかけたまま、いくつかの懸案事項を優先し、しばらく非公開指定にしてあった。それが完了してもまだ解決していないようであれば続きを書こうと思っていたが、今日、《Y!》の自ブログのコメント欄でいまだ言及があったため、記事として完成してアップした次第である。
■
《eXcite》のトラバ機能、最近、送られないケースが多いんですが。
とりあえず、制限の3本。
http://blogs.yahoo.co.jp/sen_nin_kiyama/trackback/21753/43285110
http://blogs.yahoo.co.jp/uragoe_2ch/trackback/1336549/42938410
http://blogs.yahoo.co.jp/kanakana_ceo/trackback/118812/1330763
いろいろw
・『テオフィリンを追うかぁ!』の(誰も待ってないかもしれないw)続報。
「テオフィリン~不安な、けれど必要な薬」というサイトにまとめ始めました。まだ追加したい情報が若干残ってますが。ご忌憚のないご意見をお待ちしまっす^^……ロゴが狙っていたより不安そうになっちゃったのは内緒です。
・Aさんへの私信。1/8締め切りのあれ。いまだノーアイデア!! 間に合わないかもです。ごめんなさい。