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なんのはなしかは

問わないでほしいのです。




 憎悪や嫌悪や怒りは、「さあこれから憎悪をもつぞ」と決めて自ら“持つ”ものじゃない。むしろ勝手に“生まれる”ものだろう。自分の奥にどろどろとわだかまる。熱を帯び、炎を上げる。それは理屈ではない。

 マイナスの感情が理性によってコントロール可能であるとき、それはたとえば議論にとって、有効に作用することがある。
「私がそれに嫌悪感をもつことをお知らせする。私以外にも嫌悪感をもつ人は多いと思う。だから、あなた自身の評判のためにも、それはやめておくことを提案する」
 人の感じ方が多様である以上、他人の感じ方を知るためには、機会が必要だ。だから、そういう「表明」はあっていいと思う。

 問題は。理性でコントロールできるレベルをこえて、マイナスの感情が昂ぶったときだ。どこまでいっても理性で抑えられるという人は偉いけれども、私にはその力が欠けている。

 何年も前の、理性を吹き飛ばす嫌悪の情。そのとき私は、自分が狂犬病にかかった獣のように感じた。何をするかわからない、ヤツアタリで誰を傷つけないとも保障できない。大好きな人たちには近寄ってほしくなかった。一人にしてくれ、私を見捨ててくれ、クビキを放って戦わせてくれ。本気でそう思った。
 ごく普通には、当然、そんな者は放っておくだろう。
 なのにまあ、私の仲間たちときたら。
「しずまれしずまれ」「“向こう側”に渡るな」
と、吼えたける獣を抱きとめてくれたのだ。
 あのときのことは忘れない。感謝の念も。

 その嫌悪は、穴の奥に力づくで押し込んで、蓋をしてあった。

 その蓋は元々もろい。ひょんな拍子でヒビが入り、その隙間から炎が吹きあがる。胸の奥がちりちりと焼ける。私は己の精神が焦げる匂いをかぐ。
 だが、この感情は私のものだ。忘却の能力を欠くのは私だ。誰のせいにもしない。
 ──この感情にはもう、自分のコントロールを渡さない。