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骸の青

 小学生のときだ。
 教室で飼っていた白文鳥が死んだ。
 ピンクだった肢が薄く青にかわり、その色が哀しげで、奇妙に美しかったことを憶えている。


 中学3年の夏の日。
 親子での買い物から帰り、母は留守居を任せた祖父に、ただいまの挨拶をしに行った。
「おじいちゃまっ!」
 尋常でない母の声の大きさに、祖父の部屋へ入ると、祖父は死んでいた。お気に入りのソファにもたれ、うたた寝の姿勢のままだった。苦しんだ表情はなかった。だが、肌の色は明確に生者の色ではなく、淡く青に染まっていた。真青ではない。体の隅々まで、肌のすべての色が、青の絵の具を混ぜたように、色を偏らせているのだった。文鳥を捉えたと同じ色が、祖父の体を覆い、捉えていた。夏物の白いシャツまでが、かすかに薄青を透かしているように感じたのは、事実だったのか、死というものが目の前にある衝撃ゆえに感じた錯覚だったのか。
 私は、「子供は別室へ」と追い払われるまで、呆然と祖父を見つめていた。

 sugar氏の『亡骸と、今際の際と。』を読んだ。
>「亡骸(なきがら)」とはよく言ったもので、「骸(がら)」は「殻(から)」であり「空(から)」なのだと感じずには居られず、
 これは、私が祖父の骸を見て感じたものとは、違うもののように思われる。
 私はそれを「空」とは感じなかった。「死」の厳然たる存在感を感じた。


 もしかすると。かのじょは光を見る人だということかもしれない。そういう人にとっては、たぶん、闇は光の欠落にすぎず、私のように闇に囚われる者とはどこか根本が異なるのだ。

──私は、自分と異なる相手を否定しない。ただ、差異を認識するのみ。



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 心臓外科医であるあぶセンセの、患者さんへの遺体への処理のアーティクルをからめたかったのですが、検索でどうしても見つからないです。いまブログ記事整理中とのことなので、伏せてあるのかも。

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 その検索中に見つけた、『特殊清掃「戦う男たち」』というブログ。このTBのなかでリンクするには、あまりにも内容が強烈なので、あえてリンクを置きません。ご興味あるむきは、フレーズ検索かければすぐ出ます。