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2024正月~「好きにさせてよ」

 2024年の正月は、フリーになってから最初の新年で。この節目に書いておきたいと思っていたことがある。
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 能登半島地震の報で、「今、書くべきではないかもな」という気持ちはあるのだけれど。迷いつつ、初志貫徹で書こうと思います。

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 いま、私は元気で(仕事辞めて3ケ月で、やっぱり体調は向上した)、自分の面倒は自分で見ることができ、趣味に時間もある程度の金も割くことができている。
 が。
 自分で「本当にもう無理」と思ったときには、自分で自分の最後を決める、という可能性を、見据えてもいる。
 サラリーマン生活を38年勤めあげ、会社が納得して給料払ってくれる程度にはヨノナカの役に立ってきたわけで。親にも学校にも社会にも「育ててもらった恩」はそろそろ釣りあって、To be, or not to beを自分で決めてもいいのではないかと思う。
 だから、もしいつか(まだだいぶ後になると思うけれど)、その報がネットを流れたとしても。
 できることなら
「有言実行だね」
 と親指立ててやってほしい。
「やっぱり、やりやがったか」
 と呆れられるのは、しかたない。
 けれど、どうか、「発作的」とか「短慮」とかの語はつけないでほしいし、私が「何かを悲しんで・辛くて」行ったことだという誤解もしてほしくない。「前々から考えていたこと」だと理解していただくために、今、このタイミングで、文章に起こしている。

 樹木希林の出演した名広告に、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」というのがあったけれども(本のサブタイトルにもなっていて、ここに載せたかったのだが、書影は利用不可だった) かつてこれを見た時に「これが言いたかった!」と膝を打った。
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」

 私は、母方の祖母が老人性の痴呆になった。一方、祖父は九十九で老衰で終わるまで判断力を保っていた。自分がどちらに近いかは分からないが、祖母のようになることへの「恐怖」がある。「恐怖」であって「嫌悪」ではない、そうなった人が嫌いなのではなく、自分がなることが恐ろしい。だから、自分がそうなると判断したときには、その手前で「降り」たい、と今は思っている。だが、実際にそうなったときは、どう思うか分からない。

 その時点で、「好きにさせてよ」。

 たしかに、その直後の束の間、いろいろな人に大きな迷惑をかけ、困惑もさせるだろう。だが、家族の名前もわからなくなり、下の世話を施設に委ねるのだって、それは細くて長い迷惑だろう。束の間の大きな迷惑と、細く長い迷惑を見比べて、自分で判断をしたい。
「好きにさせてよ」
 自分は自分の判断の権利を留保したい一方で。
 いま、自分の親なり義親なりに「長い迷惑」をかけ続けられている人がいることは事実で。私がいつかこの判断を取ったときに、「うちも、ああしてくれ」と押しつける人があるのは困る、という気持ちも持っている。それは、老いた人が自分で判断することで。私の判断を他人にあてはめないで欲しい、とも思う。その人は、その人の「好きにさせてよ」なのだ。

 繰り返すけれど。
 いま、私は元気で。生活を楽しんでおり。これはまだかなり先の話。後で、「前々から考えていたこと」だと理解していただくために、ここに記す。