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“No Head”

 《eXcite》ブログスキンコンテスト参加スキン“No Head”はごらんのとおり、「ヘッダー」がありません。だから、アクセスした瞬間に表示される記事の行数が多いです。そんだけ。

……だとさびしいので、
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Exciteブロガーによる展覧会、略して『EN博』が、近いらし

そういえば、『EN博』が近いんだなぁ。

「EN博」(エンパク)
11/7~12
東京銀座ミレージャギャラリー


 アートブロガーでもなんでもない私が行ってどうなんの。ってもんなんだけどねぇ。
 まあ、ご近所エキブロのよしみって、ちょっと心を引かれるじゃないですか?

それに。
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AIUEO for COPY and PASTE

牛男氏のブログで知ったんですが、外国からWWWにアクセスするときに、「日本語が読めるけれど書けない」環境があるんですねぇ。

あいうえお表なんて打っておいたら、誰かお使いになるかしら。

10/23追記
……なんていうおバカをやってましたら、ももんがさんからコメント欄で面白い情報をいただきました! 日本語の使えない端末でも、オンラインで日本語変換できるサイト。
http://ajaxime.chasen.org/

以下、情報いただいた記念にとってあるだけです。
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ヒロイン傾向占い

「女豹診断」に意外にコメントがついたので、調子にのって、Lady ぷふ宅で見かけた「ヒロイン傾向占い」をやってみた。

阿檀さんは天使の微笑み ヒロイン型です!

● とても優しく、柔らかなムードの持ち主。
(中略)
貴方の微笑みにオチない者は居ないと言うくらい、柔らかく穏やかな雰囲気を持っています。

●好相性●
鬼畜、天使の皮を被った悪魔。

● 阿檀さんの開運ペットは、ザリガニです!
ミ゚。゚彡。oO(うーん。。。。。。。。。。。。。。。。)←まるの多さが何かを語る。

でもとりあず、Ladyぷふと相性がいいらしいので、よしとすることにしました。
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中の方々に感謝をこめて。

 ぢぇみにさんに、今日・7月最終金曜が「システム管理者の日」だって教えていただきました。

 そういえば、ねぃ。お世話になってると思います。

 いろいろとね……(あ、あれも)、「お♪」とか「ほう^^」とか思ってマス。
 忘れてはなくても、御礼を申し上げる機会というのも、なかなかないものなので。ぢぇみにさん、教えてくださって、ありがとう。

 エキサイトブログ向上委員会にトラックバック。
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 お祭り好きなうえに流浪民体質の阿狐は、あちこちで言ってみたりしたのは……秘密……。
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ネットワーカーの遺言

ある日連絡がつかず掲示板に何も書かれない日、そんな日が何日か続き、何週間か続き、何ヶ月が続いたら、そうしたら、僕が死んだものと思って下さい。
皆さんに連絡できなくなったとき、書き込みが無くなった時、そのとき、僕はもうすでに死んでいるのです。

その時が来たら、この遺書を読んでいる方、お願いです。
時々でいいから、僕のことを思い出してください。
そこに僕がいたことを、思い出してください。
どんな言葉の断片でもいい、
どんな一縷の記憶でもいい、
時々、思い出してやってください。
心の物置、そこに埃まみれになって
置いていただければ、嬉しいのです。
時々、ふっと埃を払ってやってみてください。
そして、僕が生きていたことを、
どうか、思い出してやってください。

P(2003/10/13)
 この文章は、あるオンラインRPGで使っていた私の掲示板に書かれていたもの。1月下旬にふと思いたって古いログから掘り出したまま、非公開にしてあった。
 書いたのは、Pというイニシャルのハンドルを使う詩人だった。自分の作品ではない、他で見た文章を一部だけ変えて使った、と、書き添えられていた。
 RPGの掲示板だから、みな、それぞれに役がら(Roll)演じて(Play)いた。私は、“原作”を気にしながら、聞かずに終ってしまった。
 Pとのエニシはとっくに切れて、彼のサイトも今はない。いくつか単語を拾って、Google検索はかけてみたが、当たらない。詩のサイトも持っていたPのことだから、言葉レベルで、自分の感性にあわせて改変してあったのかもしれない。

……どなたか。この文章がどこにあったものか、ご存知の方はいらっしゃいませんか?

 ◇

「掲示板に何も書かれない日」か。今なら「ブログに」と書く方がしっくり来る人が多いだろう。

~ひさしぶりに『死への記録』を再読して


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おこたり

以下、『Home away Home』シリーズを拝読しつつ3/30に書いたもの。公開を迷っていたが、#4を拝読して非公開チェックマークをはずすことにした。

More
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問い返すのココロ

 私が何年か通っている漢方医。10分ほどの診察の間に、同じ質問を3回くらいすることがある。
 最初は、くどい人だなーと思った。ただその病院のシステムとして、一度一人の医師に診察を頼むと、できる限り変えないように、ということになっている。たまたまその医師が学会などで休診で他の医師に診察を頼んでも、「次回はまた××先生で」と、予約時に念押しされてしまうのだ。
 そうやって(当初は不満も持ちながらも)何年かつきあっているうちに。
 質問が繰り返されるときは、私の身体状況と、私の言葉での答えがズレているときなのだと気がつくようになった。

 別記事のコメントで、
書いている事を素直に読めずに誤解する人や、
書いているにも関わらずに何度も同じ質問を繰り返す人を
見ていると「日本語読めないのかなぁ?理解出来ないのかなぁ?」
と思うことは多々あります。
 というのを読んで、その漢方医を思い出した。
 「書いている事」と「やっている事」の間に乖離があると周囲の人間が思うときに、
「書いている事は、これで意図どおりなのですか?」
「書いている事は目標で、貴方自身が守れていないのですか?」
「それとも、書いている事とやっている事の乖離に、ご自分で気づいていないのですか?」
という「問い返し」が戻るンではなかろうか。

 前記事には、トラックバックもいただいた(『推敲は、誤字脱字のチェックに限らず・・・ブログにも・・・そして、恋愛にも・・・(笑)』)  この文章は面白かった^^。先様は、恋愛ブログという現時点の阿檀狐からは一番距離感があるかもしれない分野!(育児ブログは甥姪を見てるからまだしもなのだ)

拙稿を
リアルの世界では言葉を発する時に「あ、これは今言うべきことじゃないな」とか「ちょっと言葉が足りなかったな」ということ(推敲)を脳内でしているハズなのに、ブログの記事・・・特に毎日の日常を綴ったものは聖域なのか・・・発した発言に対して・・・何人たりとも言及はしてはならないのか・・・?
という受け方をしてくださり、
歴史を刻み続ける男女には、時に喧嘩が起こる・・・その喧嘩は、言い換えるとお互いの意見のぶつかり合い・・・その意見がぶつかり合って、お互いの意思疎通が図られる・・・そして、その男女二人のオリジナルな付き合いが形成される・・・

・・・これも、まさしく「推敲」!ではないかと
とも書いていらっしゃるのです。うーむ!!

 話言葉の場合、相手の顔が見える。たとえば会議のレベルでも、聞き手の顔はほぼ見えている。
「……だと考えます」
 と言ったあと、相手が了解したようなら、次に話題を進めるし、よくわからないようなら説明を足す。怒りの表情がでたら、
「……という意味ではないですよ?」
 という補足をすることもあるかもしれないし、言葉で問い返されれば、それに答える。
 会話はどんどん進んでいく。言葉を選んで考えているひまは一瞬。けれど、多少、練り足りない言葉が口を出ても、訂正する機会はすぐにある。そのタイムラグは数秒かと。
「こいつ、何を考えていやがる、コンチクショウメ」
という怒りが醸成される前に、相手に対する誤解の印象が固まってしまう前に、訂正できてしまう。

 ところが、ブログの場合、たとえば私が誤解されてもしかたないような文章をアップして、読み手の批判を受けたとする。批判意見がアップされたあとで、ようやく、「いやそれは、私の意図とは違う」、そういう反論をする機会がある。
 それが仮にまったくの意図違いな文章で、読み手の「私の文章への怒り」ともかく、「私という個人への怒り」はまったくの誤解であったとしても。
 読み手が文章を読んでから、批判を書き、私が反論する。その間のタイムラグは、数日になってしまうことはざらだろうと思う。
 その間。怒りの感情は読み手のなかにあるまま。誤解が解けたあとまで「あのひとは、どうもね」という印象が留まってしまう、そんな経験は……、私だけじゃないのではないかと。

 では、話言葉でのコミュニケーションは「安全」で、ブログは「危険」なのか。

 そうではないはず、という話を、以前に書いたことがある。
私は、WEBの言葉が、リアルの言葉に、劣るものだとは思っていません。
「リアルだから通じるけど、WEBでは誤解される」
「口語だから使えるけど、WEBでは使えない」
それは私にとって、肯定したくないことなんです。

WEBの言葉は、顔の表情も、声の表情もわからない。
けれど、その分、推敲ができ、文脈を整えることができる。

 上に記したとおり、一つの「キー」は「時間」だと思います。推敲する時間と、訂正する時間。
 話し言葉は、数秒。ブログのコミュニケーションは、数日。そして、……恋愛が一番長くて、たぶん何年にも渡って、一人ではなく二人で、ひとつの恋愛をゆっくりと推敲していく。そして、その推敲の過程そのものが、「恋の時間」であるわけですよね。

 恋愛の中には、話言葉もあれば、書き言葉もある。言葉以外のものも、もちろん、たくさんある。ただ、それぞれのコミュニケーションの手段に、ふさわしい「訂正時間」というものがあり、その時間によって、それぞれに「感情の醸成」があり、相手の人となりへの「印象の醸成」があるのだろうと思います。


 そして、恋の時間は長いから。変化をも、内包するから。
 その過程において、何度も同じ問いを問い返すこともあるんじゃないでしょうか。
「好き?」
「まだ、好き?」
「変わってない?」

 Woodさんの恋愛の推敲が、長くて、素敵な時間となりますように。ひっそりとお祈りしております^^

こちらの記事へのコメントは、「Wood氏記事関連&恋愛の推敲」に限定とさせていただきたく。
「HIRO氏ブログでの議論およびOYAJI氏,Yahoo転載機能関連」については、前記事ののコメント欄にお願いします。

3/12追記:最初に思いついたタイトルをつけたら、タイトルだけ『クリエイトするのココロ』のパクリじゃん。orz 首領殿、ごめんなしゃい。ミ´。`彡 …題名に著作権はかからないと主張してみるテスツ…。でもやっぱり、ごめんなしゃい。ミ´。`彡
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思った通りの小説が書けないのは当たり前だけど、思った通りのブログが書けないことはアリエナイ、らしい

“小説”を書くときに思ったとおりの小説が書けないことは、別に恥ずかしいことではない。
「ここはこういう意味ですか」
「いや、こういう狙いで入れた文章なんですけど、目論み通りには読めないですか。こういう表現にしたらどうですかね」
「それなら判りますよ」
“WEB小説”の感想のやりとりのなかで、そんな応答は当たり前であって、珍しくさえない。
(ただし、これはどちらかというと前出の「辛口感想」と見なされるので、相手は選ぶ)

“思ったとおりの小説”が書けたら、それはもう、名手と見なされるんじゃないかと思う。

ところが、ブログの文章では「思ったとおりに文章が書けていること」が前提になる、みたい。
「日本語が読めないんですかっ」
「読解力がないっ」
って、よく見るフレーズ。つまり「思ったとおりに文章は書けている」ことが前提で。
「あなたの文章は、あなたが思ったとおりには、書けていないのじゃないですか?」
などという指摘は、傍若無人、言語道断、無礼千万、アリエナイ。書き手の意図どおり読めない、読み手に非がある。

通じてない部分を直す、通じやすい言葉を探す、って発想は見えてこない。
この世で、推敲って言葉は、小説専用なのか。

うーん? なにか、すごく根本的なところで間違えているような気もする、ケド。
一個人とのやりとりを、ブログの一般論としてはいけない、とか。
……まあ、いいや。
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写真といふものII

ここ数日、なんかぼんやりと、写真と言うものについて考えていたのは、こことも《Y!》とも関係なく、むしろ《FC2》のdaniel氏の、2/19~2/28で11本というハイペースでアップされた、画像処理スクリプトシリーズのせいかもしらず、よくわからない^^

そんな下地があったところに、首領殿の記事や、ひろ氏ブログコメント欄での話があって、もう一度だけ、「私の写真への感覚が、平均をはずれていたということですかね?」と問いかけてみたくなったのである。


前記事コメ欄を拝読して、やはり少しばかり、……まさに「感情の多数決(c)jemini氏」において、ハズレているかなぁ、と自覚した、というのが、現在の実感である。

ひとつには、私の「言葉フェチ」という旧来の病がある。「言葉記事」の価値が、たぶん他の人よりも高いために、相対的に写真の地位は低い。これはもう、びょーきだから仕方ない。

もう一つは。逆説的に響くかもしれないが、「父が写真好きだった」ことと関係がありそうな気がする。

私が幼い頃、家の北側の一番暗い部屋が、父が写真を現像する暗室であった。
父はたくさん写真をとり、本人が気に入った写真だけをアルバムに貼った。余った写真が、無造作に重ねられて、家のなかにあちこち放置されていた。
父の写真は、子供や家族を真正面から記念写真的に撮ったものが多く。構図的にはどれも似たよう見えて。私はそれをほとんど「好ましい」と思ったことがない。
ブログに親しむようになって、ある公開BlogPeopleを(ひっそりとw)拝見するようになった。
そこにいくつか、写真ブログが含まれていた。
それで驚いたのだ、世の中には写真の上手い人(しかもアマチュア)がなんてたくさんいるんだろう、と。
いまさら……、自分の父が実は写真が下手だったのじゃないか、と、気づいた(爆笑)

つまり、あれだ。
私は、下手の横好き的な写真好きの父の子供として、美しくもない写真が溢れかえり余りきっている家庭のなかで育ったために。写真を貴重とか大切とか感じる神経が、発達しそびれちゃったんじゃないか、と思い至ったわけである。

言葉というもの、ブログというもの、写真というもの。

どうもまだ、考えねばならんことが、いろいろとあるね。
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