<   2007年 01月 ( 20 )   > この月の画像一覧

IPドメインサーチ

しばらく使っていなかったIPドメインサーチ。
すっかりURLを忘れていた。某A氏の玄関先から、拾ってくる^^
http://www.mse.co.jp/dom_reg/index.shtml
http://www.mse.co.jp/ip_domain/index.shtml
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平気と苦手

 《Y!》にいただいたコメントへの記事をわざわざ《eXcite》に書くのもいかがなものかと思うが、画面の説明を後から入れたいので、勘弁してください。
【トンコ氏】(略)嫌だなと思ったらわざわざ見に行きません。
【阿檀】あー^^;えーと^^;実は^^;私も苦手なサービスがあるのですが。それでもどうしても追っかけたい読み手さんがいれば「がんばって」読みにいきます。ちなみに、「はてダ」です^^;(略)
 えーと、まず。完全無欠なブログシステムには、私はお目にかかったことがない。「嫌ポイント」があるくらいで閲覧を止めていたら、ほとんどどこも見られないのではないかと思う←単にワガママw

 なかでも、前にも書いたとおり、《はてなダイアリー》が、苦手である。正確に言うと、《はてなダイアリー》と、《はてなダイアリー》を真似て「タグリンク」を導入してからの《FC2》が、苦手である。

 インターネットへ出はじめた当初、「リンクって楽しいなぁ」って思ったのが、いまも、カラダのどこかに残っている。

 記事の文中にリンクがあると、ステキなtitleをつけてやしないかとカーソルをあててみるのは、宝さがしに似ている。
 でもって、クリックすれば、書き手が読み手に「見せたいもの」が飛びだしてくる。
 いってみれば、「おいしいもの専用びっくり箱」のようなものだ。

 ところが、《はてなダイアリー》《FC2》は(ブログ主の設定にもよるが)、うっかりリンクをクリックすると、1語だけ共通する記事のリストがでる。そんなもん、めったに「当たり」の記事なんて載ってやしない。「おいしいもの専用びっくり箱」だと思って開けたら、灰色の書類が詰まった書類入れだったような、カナシイ気持ちになるのである。

 たったそれだけの理由で《はてダ》が苦手。《FC2》もこの「タグリンク」が導入されてから、私の頭の中で、「苦手」サイドへ移行ぎみ。こんなもの、ほとんどの方が平気なんだろうと思う。人によって、苦手なものは違うってだけの話。


 一方、ひろ氏が、
アバターは苦手です。特に同じ顔にズラっと並ばれるとコメントの中身とは別の次元でかなり苦痛です。他にも転載問題だの問答無用の削除騒動だの目にしましたので、私が現状のYahoo!ブログを人に勧めることはないでしょう。(略)
とおっしゃる《Y!》のシステムにはあまり違和感がないww (強制削除だけは別!!だが)

 私は《eXcite》でブログを始めた。

 一番気にいっている機能は、「なりすまし防止」コメント。これは《はてダ》にもある(んだと思う)し、《Y!》にもある。
 《eXcite》のログインコメントは、《Y!》とちがって、アバターもアイコンもないから、地味だが。

 それから、これは、ログインユーザーだけに表示されるものなので、《eXcite》ブログ外の方には説明しづらいものの。
 非ログのユーザーには、ヘッダ内で「トップ | ログイン」という文字が見えているあたり、ユーザーがログインして他ブログを閲覧すると、「リンク | トップ | マイブログ」と表示が変わる。で、「リンク」をクリックすると、自動的に、脇メニュー「エキサイトブログ」内にそのブログが追加される。
 《Y!》の「ファン登録」を、もっぱらブックマークとして使う私にとって、《eXcite》のこの機能は、二アリーイコールだ。
 《eXcite》には、《Y!》のファン専用書庫はないけれど。

 根本的にはスキンデザインが地味めで、ロゴを置くことでユーザーの特徴を出すようになっているデザインにも共通点がある。

 《eXcite》が1024半角、《Y!》は500?と半分とはいえ、コメントが長く書けないことにもそんなには抵抗がない。長いものを書きたいなら、人んちに長々書くより、自ブログで記事にする。と書くと、コメンテーター諸氏には叱られるのかw
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Macオンリー>タイポス

2005.11に書いた「フォントらぶ。」の続き。
このときは、いかにもプロ用、というパック製品しか検索にかからなかったんですが。(書体見本


今日、ふっと思い出して検索してみたら、一番使い勝手のよさそうな書体を少数、製品にしたものが別にある模様!! しかし、インターネットでロゴとかを作ってはダメという特殊製品<それじゃ私には無意味

さらに検索すると、もっといいのがあったんだけど!!
……MAC専用。

つか、プロでもないのに、フォントを追いかけまわすんもどうよ?>自分
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CSSレイアウトが崩れている時に試す10の処方箋

CSSレイアウトが崩れている時に試す10の処方箋(STOPN' LISTEN:to the silence)というのをみつけて。ここに貼っておいても、忘れそうな予感がしきり。《FC2》の公式板を自分のブクマ代わりに使ってみるテスツ。
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ユーザビリティガイドライン

ヤコブ・ニールセンの考えをまとめたユーザビリティガイドライン
ユーザビリティを語るこのページ自体が、あまり読みやすくない件について。
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メモ:水中毒で死亡?

『Wiiをかけた「水飲み大会」に参加した女性が死亡』
[追加リンク](1/23)当局が捜査開始、「水の大飲み大会」の水中毒死亡事故
アメリカで、事故があったようだ。水の過剰摂取で死に至るという話は、聞いたことがなかったが、たしかに、ナトリウムのバランスが崩れればありうる話。

専門家らしきコメントがついている。
低ナトリウム血症というらしい。

ちらっとググったところ、スポーツ医学ではけっこう問題になっているようだ。
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『超人バルク』


ISBN : B000A0D8ZY
 『超人バルク』、という言葉を思いついて、ちょっと「♪」と思ったんだけども。2秒後に、自分以外の誰にも通じないだろうってことに気づいて、凹んだ。


 そもそも、元ネタの『超人ハルク』自体が、アメコミ系ヒーローのなかでは、マイナーっぽい。

 まして、バルク剤(bulking agent)なんて某業界用語は、他の方には通じ……ないですよね?


 錠剤をつくるときに、有効成分はンmgだったりμgだったりする。これを1粒の錠剤にしたら、1錠が小さすぎて扱いにくい。
 だから、バルク剤(bulking agent)を入れて、カサを多くする。
 薬効がなくて、格好がつく(成型できる)成分を選びます。


 ブログ界の『超人バルク』は、超人的。とにかく、超人的。読み込みの深さはともかく、たくさん読む。でもって、たくさん書く。
 その努力の「量」たるや巨大(bulky)


 ブログ界には「文化圏」があると言われていて。たとえば、"無断リンク禁止"文化圏 vs "リンクは自由"文化圏とか、"言及トラックバック"文化圏 vs "関連仲間トラックバック"文化圏、なんかが、有名。

 そんな並びで、"連コメOK"文化圏 vs "連コメ(or長コメ)NG"文化圏、っていうのもあるんじゃないかと思う。
 私はもともと "連コメNG"文化圏にいた。多人数の閲覧客にまとめレスをするブログ主だけが連コメを使う、というのが、私の周辺の慣習。自分のブログ以外のコメント文字数制限があるブログでどうしても文字数をはみだしたら、「連コメすみません」と入れる。
 《eXcite》のコメント文字数制限は、半角1024。他ブログでのコメントで、これを越えたら、TBに切り替えるのが、私のもともとのスタイル。
 最近、違う文化圏(《Y!ブログ》とか)へ出入りするようになって、ちょっと、崩れてきた。

 『超人バルク』は、もちろん"連コメOK"。場は、自分のブログだったり、相手のブログだったりするが、相手のブログが"連コメNG"文化圏にあっても、自分のスタイルを貫く。「粘着」と認定されても、こだわらない。たくさん書く。というより、たくさんにしないといられない、ように見える。

 同じ記事に、何度も、似たような内容のコメをつける。たとえば、Aという意見を出す。誰かに、Bと反論される、それに対してまた「ほとんどA」な内容で反論にする。ブログ主が、Bが読み取れなかったのかな、と、うっかりB'くらいで再反論しようものなら、また、「ほとんどA」な書き込みがある。これを無限ループという。

 あとは、相手の言葉を鸚鵡返しにする。コピペ+マイナーチェンジで、自分のレスとして使う。鸚鵡返しの部分が多いから、コメントの量は膨れ上がる。
 言葉のバルク剤(bulking agent)


 私は、言葉にこだわりすぎるのかもしれない。ある種のフェティシズム。病膏肓、ときどき「本当にオリジナルな言葉なんてない」ということを忘れそうになる。真の意味で「オリジナル」というのは「いまだかつてない」ということだろう。誰も聞いたことのない言葉は、通じない。

 けれど。私は、想いを言葉のカタチで外界へと出すとき、言葉が少しでも通じやすいように、並べる順番を考えながら、文章を組み立てる。最初に書いた文章を読み返し、推敲する。直接の言葉は正しいか。行間に漂った苛立ちや喜びを、丁寧に取り除くか、あえて残すか。リズムは、溌剌をめざすか。それとも、柔らかく流れさせたいか。
 そうやって練り上げた言葉をコメント欄のバルク剤(bulking agent)に使われるのがどれほど不快か、たぶん『超人バルク』には想像もつかないのだろう。


 『超人バルク』にとって、ブログの記事は、ブログを維持するレンガみたいだ。
 これまた、画像やなにやのバルク剤(bulking agent)でたっぷり増量してある。けれど、ほぼ毎日だす。 日々レンガを積まなければ城が揺らぐという想いに、とり憑かれたように。
 レンガが足りないと思ったら、他人が丹誠こめて彫り上げた彫刻に、ちまちまとした改変のバルク剤(bulking agent)でメ潰しして、積む。パクリとか、パロディとか、2次創作とか言われたって、『超人バルク』にとっては、たかがレンガなのだ。

 好意コメントは、レンガをささえるセメント。客が多いから、コメントも多い。相手の名前をちゃんといれて、1つ1つ応える。たくさんあっても、応える。

 でもって、反論コメントは、弾幕に近いのではないかと思う。自分の意見と、違う意見が書かれる。そうすると「批判」だと思う。意見への反対ではなく、自分の人格への攻撃のように思う。いじめっ子が、ひ弱な子供に投げる石礫のように思う。
 石礫に、弾幕で応える。反論する自分の言葉が数行しかないと、たぶん、
「弾幕薄いよっ、なにやってんの!」
って思うのだ(<作品、違)。自分自身から絞りだした言葉の上に、バルク剤(bulking agent)をぶちこみ、撒き散らす。


 私は根本的に、議論が好きだ。自分がいま興味をもっていることに対して、他の方から違う意見がくる。自分のベースと異なる、他者の意見を、理解するまでにちょっとトキメク。次に、自分の仮説が、他人の反論に耐える質をもっているかどうか。他人の反論に耐えるまで、磨き上げることができるかどうか。その段階で、もう1回くらい、トキメいたりする。「いい議論」をしたいと望む。

 『超人バルク』は、たくさん書いて、たくさん議論に参加するから、議論好きなのかと思われがちなのだけれど。『超人バルク』にとって大事なのは、いい議論をすることなんかじゃない。
場をバルク剤(bulking agent)まみれにしても、逃げず、降りず、最後までその場に留まること。
 自身が負けを認めなければ、それが、彼にとっては勝利なのだろう。

 
“言葉を愛する”者、自らの文章を練り、他者の作品を敬する者と、彼は、ベースが違いすぎる、距離感が遠すぎる。その距離にかけようとする橋さえ、彼には石の礫の群れにしか見えない。そう感じてしまう私は……、怠惰なのでしょうか?

昼休みに書いて、もうちょっと練る予定でしたが、、、4行足して緊急アップ(滝汗)

 ■ ■ ■

 ここんとこ、ディックだったりヴォネガットだったりレムだったりララァだったりするわけですが。今日は、ハルク。
 こんなワタシですみません。
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尻尾的なお詫び

あるひ 突然 尻尾が生えたら なんとなく 困る

ぱたぱた振ってみたり だらんとしてみたり
力 はいりすぎて くりりんと巻き上がったり
どこかに 繋がっているような でも 繋がるためじゃないような
自分の みたいな 違う みたいな

なにより いままでずっと 尻尾なしでやってきたせいだろうな
なんとなく 困っている自分に 気がついた


あたしにとって そんな感じなのです、
はてなブックマークは。

ブログは、誰かと繋がるための手か、ここに立っているための足です。
手や足はいるけれど、尻尾はどうもいらないみたい。


いまの(てんさいかんれん)が一段落したら ブクマは隠してしまう予定です、

どなただかわからないのだけど
「お気に入り」しててくださった3人の方
そのうち見えなくなりますので 今のうちに謝っておきます
ごめんなさい

たぶん、転載騒動を離れたら、その方たちにとっても、要らないと思いますが>うちのブクマ


[激しく無関係]別のところで別の尻尾を発見。
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責任を求めるのがおかしい、と、言い放った貴方へ

インターネット上の「情報」に責任を求めるのがおかしいのです。その情報を選択するのは「選択した本人」なのです。ネット上にはウソの情報や、間違った情報もたくさんあります。どれを選んで利用するかは「利用者側の責任」です。

2007/1/15(月) 午前 0:56

たしかに、ネット上の情報を“利用”する側は、それが信頼できる情報かどうか、確認する必要がある。

が。発信する側として、それに甘えてよいのか。

発信する側は、できるかぎり正確な情報が、できるかぎり意図に近いニュアンスで届くように、できるかぎり努力し。
受信する側は、その根拠を含めて、厳しく吟味する。


発する側と受ける側が「正確」を求めて両側から手を差し伸べて、ようやく、なんとか使い物になる情報となる。それが私の実感だ。

医学系のページを作る、その興味を持つための最初のきっかけは、他の方の発信した情報であったかもしれない。でも、1行を書くために、何時間も検索をし、ようやく見つけた時のこの高揚はもう誰のためでもない、私自身の喜びだ。この喜びを大切にしようと思う。

そして……、幸いなことに。私はその責任と喜びを受け止める、多くの発信者を知っている。

文責を、求める発信者と放棄する発信者がいるとしたら、放棄する側は見劣りがしても仕方ない。……それくらいは、お許しくださいね。


追記:あの場では引用発言は私以外の方の発信した情報に関して行なわれたためあえて反論しませんでしたが、上記のことは私にとってどうしても揺るがせにできません。会話としては遅ればせを承知で、あえて書かせていただきました。
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いまは無きブログに捧げるD論

re:Do Androids Dream of Electric Sheep?



アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
P.K.Dick/ 早川書房
ISBN : 4150102295
 私がそっと拝読していたあるブログに、PKD(フィリップKディック)の作品『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を引いた短い記事があった。その作品には、一人のパーソナリティが、ラジオだかTVだかで、1日24時間以上の主演をしているという描写がでてくる。作中では、彼は実はアンドロイド(レプリカント)だったのだが。ネット接続時間の非常に長いあるユーザーを、このパーソナリティになぞらえていらしたのである。

 私がその記事にレスを書こうかどうか迷っているうちに日が経って、そのブログは無くなってしまった。


 この記事によって、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を思いだしたときに。
 実は、私はもう一人、別の登場人物を連想していた。

 この作中には、「ムード(情調)オルガン」というガジェット(SF的小道具)が登場する。人々はムードオルガンの取っ手を握ることで、感情を繋げることができる。感情の「輪」の中心にいるのは、マーサーという老人である。マーサーは山を登っていく。どこからともなく飛んできて、マーサーに当たる。足元の斜面が崩れ、マーサーはけして頂上にたどりつかない。えんえんと繰り返すその映像を中心に、人々は接続する。ムードオルガンを通じて、互いの日常生活のなかの喜びと苦痛を分かち合う。

 やがて。先述のレプリカントがこのマーサーの正体を暴く。マーサーは、飲んだくれの売れない老俳優に過ぎず、石も本物ではない。人々の「繋がり」の中心に据えられていたのは、ただの芝居だったのである。アンドロイドは、人間の「繋がり」の中心を破壊した、と、勝ち誇る。

 しかし。人々は……、偶像が堕ちてもなお、その感情の接続を切らないのだ。ムードオルガンに、自らの感情を託し続けるのである。

 これは、砕かれた「コア(核)」の物語だ。けれど、その周囲の人と人との繋がりが十分に緊密なものになっていれば。コアが砕かれても、その繋がりまでは破壊することができない。それは、アンドロイドが予期した、理性的な繋がりではないからだ。その「理屈に合わない」感情移入能力こそ、この物語のなかでは、「人間性」の証明となる。

 なお、この作品の発表は、1968年。ARPANETと名づけられた、インターネットの「元祖」が誕生したのが1969年だから、その前年にあたる。


 ある記事を読んで。私は何度か書きかけては発表をためらってきたこの文章を、アップすることにした。
 コアが傷つけられても、それを見捨てることなく、繋がり続ける。その方たちの人間性を、私は、否定しようとは思わない。
 
 だが……。かりそめにもコアになった以上、まわりに繋がった人たちに対する、なんらかの意識と言うのはあってもいいものではなかろうか?
──「自らの評判などには「無頓着」」 ほんとうに、それがベストアンサーなのでしょうか……?


~謝辞~
思考を深める機会をくださった、消えたブログの主に感謝をこめて。
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