2006年 12月 19日 ( 3 )

トラックバックポリシーに追記しました

トラックバックポリシーに追記しました。
また、当方から発信しましたTBにつきましては、受信先さまに処分をお任せいたします。
ブログは、ブログ主様の小さな王国。当方からみて不当とは思えないTBであっても、受信先さまのポリシーに合わなかったり、ご迷惑であったりした場合は、削除いただいても、(感情として悲しいことはあるにせよ)不服を申し上げることはいたしません。

よろしくお願いいたします。
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絶望から始めよう

 私が《FC2》でリリースした最初の共有テンプレート“cateleon”は、たしかに、トンデモないテンプレートではあった。ある機能が追加でついているのだが、リンクの相互関係が正常に機能するためには、「1ページの表示数」を1にする必要があったのだ。

 だが。実際に設置してくださったユーザーのブログを拝見すると。
 注意書きどおり設定されていないブログのなんと多かったことか!!
 私は、コメントに「表示数を変えるか、テンプレートを変えるか、どちらかのご対応を」を書いて引き上げ、しばらくして、共有テンプレートからこのテンプレートを削除してしまった。

 初めてのテンプレートだったし、スクリプトも手さぐりだった。たぶん、作りなれた方から見れば、とてつもない時間を注ぎ込んだシロモノだった。それが(私の知る限りたった2名の例外を除いて)使い物にならなかったという精神的ダメージは、大きかった。このときに、ブログというシステムは、「注意書きを読まないとダメではダメなのだということを思い知った。

 私が現在「注意書きを読まないと使い物にならない」《Y!ブログ》転送機能に関して「ダメ」=撤去提案の方向性で考えているのは、おそらくこれが原体験になっている。

 この後も、やれユーザーフォーラムの注意書きを読んでもらえない、なんとかもだめ、かんとかもだめ、と、立て続けに似たような経験をしたが。他の初心者ヘルプ・ボランティアに比べると、自分の「平然度」が高いのを感じた。

 要するに。最初に絶望しちゃったほうが、楽なのだ。

 ベースが異なる相手と、最初から意志疎通を期待すれば、裏切られたときに苦しい。
 ならばいっそ、絶望から始めよう。
 注意書きは読まれないし、言葉は通じない。
 人の気持ちなんて、届かない。
 その前提でいれば。

 言葉が、想いが、通じた瞬間、新鮮な喜びを味わうことができるのだから。


FD氏、『異文化交流は、本当に大変です・・・。』にトラバ、ミ^。^彡っ
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『夜』の思い出

 ン十年前の話になると思うのだが。
『男たちの夜かな』という週イチのラジオ番組があった。スポンサーが降りてしまい、DJである広川太一郎氏が自費で放送枠を買っているという、妙な番組だった。

 そこに、「自殺します」という葉書が投稿された。番組で読み上げられた葉書の内容は忘れたが、内容からか、文体からか、中学生か高校生という印象を記憶している。
 広川氏は、放送時間をかなり割いて、「とにかく死ぬな、俺も○ちゃんも君のことを心配している」という呼びかけをした。(○:番組アシスタント、名前忘れました)

 翌週。
 「死ぬ気はなかった。いたずらでした。心配かけて、すみません」
という詫びの趣旨の葉書が来た、と、広川氏から報告があった。

 そのときの広川氏の話の内容は、昔の話なのでうろ覚えだし、もしかしたら記憶違いもあるかもしれないけれど。
「いたずらかもしれない、という可能性は考えていた」
「でも、“自殺します、という葉書をイタズラで投書する”という精神状態と、“自殺する”精神状態は、けっして遠くない」
「だから、まず、“君のことを心配している”、と、伝えることを、最優先にすることにした」
「イタズラにひっかかりやがって、とバカにされるとしても、そんなことは俺はかまわない」
そんなことを言ったあとで。
「むろん、こんなのは偽善だ。でも、偽善であっても善は善。悪より、はるかにマシなものなんだ」
と、付け加えた。

 善のいかがわしさに、自覚的であること。偽善の恥を知ること。両方を引き受けて、怯(ひる)まないこと。
 私は当時一人のコドモとして、一人の大人の所行に、そんなものを感じとった。

 結局。2回分の放送について、いつものコーナーは中止になり、他の話題の投稿ハガキの読み上げなどはその次以降の週にもちこされた。広川氏は、放送内容の変更に関して、「他の投稿者と協力してくれたスタッフへの謝罪と感謝」で話題をしめくくった。

 当時の広川氏が、偽善の汚名は我が身に引きうける覚悟をもつ一方で、名誉の部分はスタッフと共有しようとした、……とまで今書いてしまうのは、長い時を経た美化もあるかもしれないが。

 ただ、これまで何度か、「偽善であっても善は善」という言葉が、私の背中を押してくれる局面があったのは、私自身にとって、主観的事実というヤツなのだ。……もちろん、行為の方法を練ることや、“安易”に陥らないことの必要性は、別の課題として存在するのだけれど。

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 この記事は、実は11/16に8割がた書いて、非公開にしてあった。

 なぜ書いたか。なぜ非公開にしたか。なぜ、いまこの記事にトラバするか。ご想像にお任せする。
 速攻でレスをいただく種類のものでもない。ただの読み物であって、「悪」の一語の関連仲間文化圏的TBであると解釈いただいても、それもまたよし。それを理由にTBをお切りになるとしても、いっさい不服は申し上げない。
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