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おこたり

以下、『Home away Home』シリーズを拝読しつつ3/30に書いたもの。公開を迷っていたが、#4を拝読して非公開チェックマークをはずすことにした。



 私がある宗教の「信者」になったのは、生後3ケ月の時だった。
 その宗教に帰依する意志があるか、尋ねられた記憶は、ないねw

 宗教といっても、生臭くキナ臭い宗教である。いくつもの戦争の原因になった。政治に介入した。ああ、何百年も昔の話ではないよ。前世紀末Pーランドって国で社会主義体制の崩壊に力を貸したって話だし。

 私の家族は祖父祖母両親兄弟と、この宗教の信者だったのだ。

 私個人がその宗教をまるっとそのまんま信じているかというと、そんなことはない。たとえば、この宗教では、進化論を認めないが、私は進化論の話が大好き。最初に、帰依する意志を確認してくんなかったんだから、私もそうそう教義を丸呑みする必要はあるまい。……そんな感じ。その距離感は年々強くなって、最近は、自分が「信者」だということさえ半分忘れているようなアリサマでった。

 だが、だ。

 この宗教の中では、「おもい・ことば・おこない・おこたり」の罪が、並び称される。今回の論争のなかで、私は、判断ミスをした。少なくとも、自分でそう感じた。「それはマズイんじゃないですか?」と言うべきときに言わなかった。「マズい」と思いさえしなかった、気づきもしなかったのだ。それを私は「おこたり」と感じた。「おこない」の実行者だけではなく、自分にも「おこたり」の責任があると感じた。
 実行者でない私に「責任がある」と書いたとき、それが判らないという方もあった。なぜ、その部分が通じないか。しばらく考えて、私は結局、幼時から私の骨の髄に染み付いて、漂白しきれなかった部分のせいだろうと思った。たとえば「思っている」だけで実行に移さなければ罪はないと考える人もいるだろう。「おこたり」も、罪にはならないと感じる方もあるだろう。
 だが、私は「おこたり」を罪に感じる。感じるのだから、仕方ない。
 昨夜。どうもまたやったらしい。

 罪は、他人が決めつけるものと、自分が定義づけるものがある。これは自分が決めた罪。受け止める。考える。重さを量る。

[2007/3/30,20:56]